10月21日マスターズ研修(シニアコース)

10月21日 平成19年度 下期最初のマスターズ研修・シニアコースが開催されました。
「シニア研修コース」の講師は、「講師養成講座」の受講者が交代で担当します。テキストを定めず、資料は各講師が作成します。本日の担当講師は近藤悠氏です。
テーマ「生と死について」
序 「死」を考えることの意味
1.立花隆氏の「臨死体験」 資料1(立花隆著「臨死体験」)
 (1)立花隆氏について
 (2)臨死体験の内容
 (3)臨死体験をどう考えるか
   ? 一元論,脳内現象説(局部刺激説、麻薬物質分泌説など)
   ? 二元論,現実体験鋭:アラン・サリバン氏の事例
   ? 立花氏のスタンス
2.田沼靖一氏の「死の起源、遭伝子からの問いかけ」 資料2(田沼靖一著「死の起源 遺伝子からの問いかけ」)
 (1)田沼靖一氏について
 (2)科学的に見た死のメカニズム
 (3)死の起源 & 死(性)の進化
3.「死による無限」(永遠の生命)」は夢幻のことだろうか ?
 (1)利己的な遺伝子    、
 (2)臨死体験者の感想
 (3〉先哲の言葉
会長講話がございましたが、またもや録音失敗してしまいました。
会長語録として記しましたので、ご参考まで
続きをご覧ください。


99%のパースピレーションに“正しい汗”の流す生き方
エジソンの言葉に、1%のインスピレーションと99%のパースピレーションというのがある。インスピーレーションの世界というのは、物質的でない世界です。パースピレーションの世界というのは、一般的に考えて人間が合理的に努力し汗を流す世界です。我々の人生をこう捉えればいいのではと皆さんに申し上げている分けですが、つまり、この世に起こること100%すべて解明できないということです。 科学で全部説明できると言うのは、科学の傲慢さであり、現在科学で説明できないことがたくさんあるのです。
我々は 汗の流し方、つまり99%のパースピレーション、すなわち、“正しい汗”の流し方を追求し、学んでいき、求めていくべきでしょう。そうすると、必ず、必要なときにインスピレーションが働きます。それでいいのではないかと思うのです。100%人間で解明できるなんていうことは不可能です。
今日一日、一日生涯
自然を征服するなど思い上がった考え方を人間は一時は持っていました。 いまの地球環境問題は、人間の思い上がりについて匕首を突きつけているようなものです。 我々は謙虚でなくてはなりません。そういう意味で、1%の部分はお任せし、それは何にお任せするのかは別として、我々はひたすら“正しい汗”を流し、学び行うのみです。このように考えます。
したがって、最初に近藤さんが言われたように、スコーレでは死後の問題は問いません。キリストだって言っていない、お釈迦さんだって言っていない。御釈迦さんは後世になってお弟子さんがいろいろ言っているけれど(原始仏教は別だが)、孔子も言ってはいません。
あるのは、今日一日、一日生涯という言葉がありますが、朝起きて、そして、夜寝る。朝生まれて、夜死ぬ。これが、私たちの生というものを見つめた生き方であろうと考えわけです。
利己的、利他的という話がありました。生命というものの本質的な性質として3つ在るわけです。
一つは、“自己利益”。 やはり、命は自己利益を追求するのもでもあります。
もう一つに、“連なり”。生命は一個では生存できません。常に連なっています。
もう一つに “支え”。 他を支えることで自分が支えられています。
これらが、この地球上に存在する生命というものの本質にある性格です。
私たちは何にたとえられるか。
私たち、人間というものは、何にたとえられるだろうか考えてみます。そうすると、一枚の木の葉と捉えることができます。ご存知のとおり、葉は、太陽からのエネルギーを受けて茂り、また、根から大地の養分を吸い取って、幹から枝を通って送られてきたもので茂らせています。 葉は太陽からもらうエネルギーで、他の葉も茂っています。 生命の木、民族の木、人類の木、樹木の生長にとって、木の葉は欠かすことができないものです。やがて、秋になると木の葉は落ちていく、そして、土に返って腐り、養分となってさらに、木の生長に貢献することになります。
永遠の生命
私は、日本における個人主義とは、根のない個人主義だと思っています。西洋における個人主義はキリスト教の神をもっています。だから、ヨハネ伝の言葉が引用されていますが、西洋の個人主義は永遠の命を信じて、その上に個人の尊厳性というものを説いているわけです。
永遠の生命というのは、西洋人は本心からどうかはともかくとして、彼らにとってはそれを信じた上での個人主義である。 戦前の日本は、永遠の命、仏教的な、神道的な、あるいは儒教も入っているが、東洋的な死生観に立っての永遠の命を、昔の日本人は信じていました。こういう考え方が間違えだと、一つには、国が戦前において利用したのでした。どれだけ多くの人たちが、我が命を軽いものとして死んでいったのか。そういう日本国民の体験があります。そういう意味では指導者としての罪は大きいと思う。だから、戦後、命を尊べといったら、みんな“そうだ”と思ったのですよ。だけど、永遠の命という考え方を持たないで、只、“生命が尊い“といっても、そうするとどうなるか。卑怯者になりますよ。 非常に弱い国民となります。日本人は変わりました。
自分の命を憎むことは、ここでいう自分の命というのは、肉体的な生命です。 人格的な命があるということ。 人格的な命というのは一個の人間として恥ずべきことがあったら命を絶つということにつながります。これは昔の考えです。
祖先の息吹を感じ、それを伝えていく務めがある
「指きりげんまん、うそついたら針千本飲ます。」と子どもたちが言っていました。いまではそんな子どもたちはいません。昔の日本人は、口約束は絶対守ったものです。人として真偽に悖る事はしてはならない。私たちは、永遠の命を信じることができないような教育の下で育ってきています。それが、今の日本人の弱点です。 そういう点で、自分をどういう風に捉えて行くのか、自分がこの世にどうして生まれて、なにをして死んでいくのか、なにを残して死んでいくのか。我々の命には親の生き方が伝えられています。親の人生が受け継がれています。親の心が受け継がれています。そして、我々の父、母にも父母がいました。 我々は、ずっと我々の生命に流れている祖先の息吹を感じて、そして、自分の子どもたちにそれを伝えていく務めがあります。これは、最低でもやらなければならない務めです。 欧米のキリスト教とは違う、生命感、人間観を持つ必要があるのです。
(2007.10.21 マスターズ研修シニアコース)

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